クレイジー・ラブ1
あたしは別に、秀でた才能もなければ特別美人でもない。
不細工でもないけど、だからってあたしより綺麗な人や可愛らしい人は五万といる平均的なありふれた顔してると思う。
身長だけは高くて、普通に170はあるけど。
でもそれって、なんの得にもならないステータス。
特別目だった存在でもなければ、頭がすこぶるいいわけでもなく、スポーツに自信があるなんて特技もない。
言うなれば平均。
普通で普通を固めて普通に暮らしてきた普通の女子高生だ。
要するに、何が言いたいかっていうと…。
「なーつーめ〜。」
「げ…っ!?」
「げ、じゃないよ?いつまで待たせる気?」
小首を傾げ、今しがたあたしの名を呼び。
にこやかに甘い、その男に求愛されてるという事実がどうしても飲み込みきれないのだ。
艶やかという言葉はこういう時に使うのだろうとしっくりくるような黒髪は襟足だけ長く。
垂れ目がちな瞳は日本人離れした顔立ちに見合った青みの強いヴァイオレットの瞳。
どことなく甘い雰囲気を醸し出し、もの憂げなその男は、
けれど見た目ほど甘いやつではない。
「待ってろなんて言った覚えはないんだけど?」
襟足の長い黒髪はクセが強く、ウェーブがかった髪は今日もふんわりと揺れる。
雰囲気だけはどこか儚いミステリアスさがあるというのに。
片腕だけ義手で、骸骨のそれを思わせるような悪趣味な腕が伸びてくると怖気付いてしまう。
骨の骨格を忠実に再現した義手は、あたしの手首を握って顔を寄せるのだ。
「僕が言った。」
ニヒルな笑みを前にすると黙りこくってしまう。
ミステリアスで儚げ、なんて見た目は。
着崩した服と、耳や顔、腕や足に至るまで。
ボディピアスがされていることで相殺されている。
どう見たって、どう考えたって。
お世辞を交えて見た目を告げようとしても、チャラいし危なげ。
綺麗な顔してても、仄暗く見えるほど白い肌をしていても。
発言もその態度も、何もかもが胡散臭い。
この男はきっと、人に忘れられたことなんてないんだろうなとよく思う。
そもそもこんな悪趣味な義手を付けてる時点で、インパクトは大きい。
あたしだってそうだった。
名前なんか聞く前に、ひと目見て忘れられない姿に目を瞬いたもんだ。
「あのね、あたしはまだ帰る気はなくてですね…、」
「なんで?定時はとっくに過ぎてんじゃん?」
「ていうか普通に研究室に入ってこないでくれるかな?なに当たり前のように座ってるの?」
「相変わらず趣味の悪い部屋してるよねえ〜。」
大学でも自分の研究室を与えられているあたしの部屋を見渡しながら。
その男は自分の見た目を鏡で見たことはあるのかと、つい聞きたくなるような発言をした。
まあ確かに、人体の一部を模した義手や義足。
義眼に至るまでが並べられているここは、女の研究室とは思えない不気味さはある。
あたしは所謂、義手装具学科の学生だ。
今は大学院に居て、国家資格も合格しており。
就職しようとも思ったけれど、研究室に進んだのが現在のあたしである。
「よくもまあこんな悪趣味な手や足を作ろうと思うね。」
「君にだけは言われたくないかな。」
一番悪趣味なもん付けてんじゃねえか。
心の中で言いながらも、彼が手に持っているのはあたしが遊び半分で作ったロボットアニメの義手。
勿論、装着は可能であるし動かすことだってできる。
なんの取り柄もないあたしが幼い頃から得意だったのは機械を触ることだった。
しかもパソコンとかそんなIT系ではなく、がっつり職人系のもの。
父が機械工学の学者だった事と、母が義足だった事もあり。
環境的に考えてあたしがこの道に進んだのは必然のようなものだ。
まあ、どうしても周りからは敬遠されがちな科目だけどね。
高校の同級生なんかと集まって話していても、何してるかって聞かれると困るし。
こういう科目のことを言ったら大抵男の人にはドン引きされるか、凄いねと空気を読んで合わせてくれる程度。
理系女子なんて言葉があるけれど、まるっきり論外の理系女子なのは言うまでもなく。
可愛げもへったくれもないもんだから合コンなんてものでは必ず浮く。
見た目が大事だというけれど、話しが噛み合わないというのも困りものだ。
これでも気を使って最近の流行りなんかは知識として入れるようにはしてたりするけど。
男の人は完璧に専門職である女というものに対して看護師しか頭にない生き物だ。
義手装具士なんてものは専門職の中でも知る人ぞ知るってもんで。
そんな学科あるの?と言われることが多い。
だから恋というものに関しては全く無縁の世界で勉強しているあたしは、
「ていうかいつ終わんの?」
まさか自分が男の人から言い寄られるなんて思った事もなかったし。
こんな悪趣味な研究室を見て、あたしが何をしているか知っていながらにこやかにお誘いされるとも思ってなかったものだから…。
「いや、帰ってくれていいから。別に待ってろなんて言ってな…」
「僕が待ってろっつったってさっきも言ったよね?」
「……あたしは了承なんか……」
「でもいっつもここいるよじゃん。」
逃げてもいいのにさ?とほくそ笑むような眼差しには押し黙ってしまう。
そりゃそうなんだけど…。
逃げるったってどこに?
行きたいと思う場所もなければ、研究室から出るときなんて帰るときくらいのものだ。
あたしは別にお洒落とかブランド品とかあんまり興味ないから。
街中に行ってもどうしたらいいかわからない。
自分の眼鏡を押し上げながら、今日も今日とてあたしの目の前に当然のように姿を表すこと男。
「それで?いつ終わんの?」
「未定、です…。」
「ふうん?じゃああと3分後ね。」
「な…!はあ?!そんな強引な…!」
「僕、待つの嫌いだから。」
そんなこと知るかああああっっ!!!
この人と関わってから心の中で絶叫することが多くなった。
にこやかなその笑みには本当に好意というものが微塵も湧かない。
露ほども湧かない。
軽くストーカーだとすら思ってるのに、
「あ、あと2分。」
「…っま、待ってよ!あたしまだ片付けもできてないのに…っ!」
「あと1分40秒。」
「わかった!わかったから!!急かさないでっ!!」
慌てて立ち上がり、白衣を脱いで機材の片付けを強制的にさせられる毎日。
全くもって迷惑でしかないこの男は、一人称が意外すぎるなと思うほど似合ってない僕様で。
デニムに破れたようなデザインの黒いインナーとロングカーディガンなんていう組み合わせを平気で着こなすお洒落さん………、多分。
お洒落の基準なんてよくわからないけど、そんなド派手な格好が似合うのって素直に凄いと思う。
慌てて片付けを終わらせ、鞄を引っ掴み、クリップで上げていただけの髪も解いてしまい。
息切れして彼の目の前で呼吸を整えていれば、
「眼鏡、また付けっ放しになってる。」
「え…」
スッと伸びてくるのは義手ではない右手。
女のように細く、けれど男の人だとわかる長さで。
手首から腕にかけて刺青までしてるっていうのに、その指先の繊細な美しさは間近で見ても綺麗だなといつも思う。
自分の顔から取り外された眼鏡は彼の指先に軽くかけられ、視界が急にボヤけるような感覚に目を瞬いていれば…。
「眼鏡って本当に邪魔だよね。」
なんて声が聞こえ、そのまま当然のように唇が重なってくるもんだからもう硬直。
手が早いってレベルじゃないのだこの人は。
手が早いのは当然で。
逃げないあんたが悪いんだろって態度なのよ。
「な…!やめてってば…!!」
ハッとして腕を突き出すと、それを見越していたように手を繋がれており。
「これ捨てていい?コンタクト買いに行こうか。」
「ダメに決まってるでしょ?!てかさっきから本当にいい加減にして!あたしのことなんでも勝手に決めないでよっ?!」
「なんで?」
「な、なんでって…?!迷惑だからに決まって…!」
「じゃあいいじゃん。僕、迷惑かけたくてやってるし。」
「はあ?!」
とっとと部屋から出て夕焼け色の空の下に連れ出されるがまま。
全くもって理解に苦しむ理屈には唖然とするしかない。
「なんでそんな…っ!」
「迷惑ってさ、惑わせて迷わせるって書くんだよ?」
「は、い?」
「それを踏まえて迷惑してるって言われるのってすごい燃えない?」
だめだわ。
こいつの感覚が全くもって理解できない…。
「僕に惑わされて、僕に迷い込んでるんでしょ?」
「…………」
なんでだろう。
言い方がとっても卑猥に聞こえてしまうの、なんでだろう?
サラッと言って無邪気な笑みを見せたかと思えば大人びた顔してあたしに迫るこの男。
「棗の迷惑独占中なら尚良し。」
フッと笑ってくるその美麗さに惑わされてはならないとわかってるのに。
言ってることは滅茶苦茶だってこともわかってるのに。
この不意打ちに心臓が跳ねてる自分が恨めしいのなんのって…。
「ほら、行くよ。」
「…っ、」
引かれる力に歩かされて、嫌なはずなのにいつも強引に連れ出されるものだから結局この男のペースにハマってしまう。
毎日毎日。
飽きもしないで通ってきて、意味がわからない。
「取り敢えずコンタクト買って〜、それからどっかでご飯テキトーに食べてホテルかなあ〜。」
「ホテルはいらない。ホテルは!」
「じゃあ棗ん家?」
「いや、食べて解散!」
「それはないな。ないない、あり得ない。」
「あんたが一番あり得ないから?!」
兎に角あたし、困ってます。
あたしがこの男に付きまとわれるようになったのは数ヶ月前に遡る。
見た目も普通。
体型も普通。
秀でたものは特になく。
コンプレックスといえばこの身長くらいのもの。
留学して帰ってきて大学院に進み、国家資格も取ってると言えば。
大抵真面目で優秀。
親を困らせたことも、羽目を外して遊ぶことすらもまるで知らない女だと思われることが多いけど。
実際はそうでもない。
あたしは自分が普通だとは思うけど、だからって特別不細工とかプロポーションが悪いとも思ってない。
平均的に見ればそれなりに目立つ容姿はしてると思う。
兎に角この身長があるから、何したって目立つのは当たり前で。
だから姿勢に気をつけて歩いたり、それなりに身だしなみを整えることでもしたら。
周りには結構美人に見てもらえる。
生まれつきのストレートの黒髪も、母譲りのドールアイも。
モデルや女優並みの美人じゃないけど、それなりにナンパもしてもらえる。
だからあたしは、年齢イコール彼氏無しと思われがちだけどそうでもない。
普通に付き合うことはしてたし、それなりに遊んでたほうだ。
だって勉強ばっかりって息がつまるから。
結果を出したいなら、人間誰にだって休息は必要でしょう?
まあでも、あたしはどうにも男運っていうのが悪くて…。
いや、男を見る目がないって言った方が正しいだろう。
要するに何が言いたいかっていうと…。
「痛……っ。」
その時付き合ってた男は3人目の彼氏で。
前に付き合ってた人よりすごく優しかったんだけど、その分あたしをいっぱい殴った。
半ば同棲みたいなことをしていたけれど、ほとんど寄生されてたと言った方がいいだろう。
あたしの部屋に居座って、働くこともなく。
まだ学生だったあたしのバイト代やら親からの援助を食い尽くす男だった。
「ほんと、見る目ないなあ……。」
その頃は自分の部屋に居ることそのものに命の危険すら感じていて、夜中の街を徘徊することが多かった。
麻雀の店に入り浸って朝まで過ごしたり、行きずりの男になった慰めてもらうようにホテルで止まったり。
ロクな毎日を過ごしてはなかったのだ。
その日も良く行ってる麻雀の店に入り、顔見知りのおじさんや店員にボロボロの姿を見られながらも気さくに笑っていた。
顔にガーゼを貼って、頭に包帯巻いて。
腕や足も同様に、外れることなく増えていく怪我の多さは日常だったし。
そもそも夜中にこんな店に来る客なんて何かしらワケありが多いのも常識だから。
誰も突っ込んだことは聞かないのだ。
それが居心地よくて、ついつい通ってしまうのが癖になってて…。
「お!棗ちゃん!!ちょっと変わってくれよ!こいつ強くってさ!!」
馴染みの店で、馴染みの顔に囲まれて。
薄暗い店内はタバコの煙に靄がかかり、
誰もがどんな目的できてるかはわからなくとも、麻雀を前に腰かければ打つのは当然。
あたしもそれなりに勉強はできるほうだし、もともと理系でもあるから。
こういうのって得意で、父から将棋や囲碁を幼い頃に教えてもらい。
その中にも麻雀があって、自慢ではないがそこそこ強い。
それを知ってる顔なじみの人に呼ばれ、座った目の前にいたのが…。
「へえ…?お姉さんの名前、棗っていうんだ?」
あたしのところに毎日通って来る男だったのだ。
その時はまさかそんなことになるとは思わないし。
ただ、店に来ると大抵その男もいつも居ることは知っていた。
初めて見たときから印象は強烈で、何よりもその悪趣味な義手を見たら忘れられるわけがない。
しかも店内の年齢層を考えるとあたしと同じくらい若いから、目立つことこの上無しだった。
「よくここで会うよね、君。」
「そうなの?」
あたしから気だるく話しかけても、彼は小首を傾げるだけだった。
そりゃそうだ。
いつも遠目から見てただけだし、今日もいるなって思う程度なのが普通。
ただその男は名前も知らないのに、どうしても店に入ってしまえばすぐ見つけられる。
ド派手な見た目してるし、多分そういう客はあたしだけじゃないと思う。
「そうだよ。てか、煙草一本ちょうだい。」
「吸うの?」
「吸わなきゃちょうだいなんて言わないでしょ。」
打つ前に、と。
彼が咥えている煙草を見て手を伸ばしていたあたしは普段から吸う女ではない。
だけどこうやって殴られた後とか、虚しいなあって思う時とか。
たまに吸いたくなるから、このお店で貰うってことはしょっちゅうしてた。
だから特別銘柄にこだわりもなくて、
「何吸ってるの?」
「ガラム。」
「何それ?」
聞いたことのない銘柄に、取り出されるものは箱でなく缶だった。
丸い円筒の缶は赤いパッケージをしており、一本取り出して手渡され。
香りを嗅ぐ暇もなく甘い匂いが鼻腔をくすぐったのだ。
「それ見せて?」
缶を指差して言えばどーぞ、と手渡され。
タールを見れば42mg。
見たこともない数値に驚愕しながらも。
今しがた彼が吸って吐き出す香りはなんとも甘く、エキゾチックな香りだった。
「火、貸して。」
缶を戻しながらライターを貰い、貰った煙草に火をつけて吸えばフィルターすらも甘く。
唇に張り付く甘さと、煙の甘さと。
それからパチパチッて吸うたびに火が弾ける音が独特で。
嫌いな人は嫌いだろうなって思うくらい甘さが際立つ煙草の味は印象的だった。
ただ、タールが42っていうのは然程感じない吸いやすさは気に入ったのだ。
「いけないんだ〜。学生なのに。」
「同じじゃないの?」
人に手渡しておきながら、クスクスと咎めてくるその人。
学生って言ったってもう二十歳は超えてるし。
「さあ?どうだろう。数えるのやめたし。」
見た目の若さだけで言ってきたのだろうその言葉に、ケロリとして返したものの。
彼は本当に覚えてないのか、静かに笑っていた。
「あたしも数えるのやめよっかなあ〜。」
まあ学生してたら嫌でもわかっちゃうんだけど。
合図もなく始まっている途中ゲームを動かしながら、周りからはこの兄ちゃんマジで強えんだよって言葉が時折聞こえていた。
「それよりあげたんだから、返してね。」
「うん?」
「煙草。」
ゆるりと笑う男はあたしより年上なのか年下なのかもわからない。
無邪気なような大人びたような。
子供の甘さと大人びた乾きがバランスよく配合されたような。
派手な見た目と、悪趣味な義手のインパクトとはまた違う印象があった。
「ケチ臭いこと言うなあ、君。」
「ソナタ。」
「ん?」
「僕の名前。」
「……」
「それか、ソウメイ。」
「はい?…どっちが本名?」
「どっちも。」
「…はあ?」
鳴き声を奏でるって書いてソナタ。
奏鳴曲から取られたのだと彼は言った。
意外にも綺麗な名前だったことに感動は特になかったけど。
「今流行りのドンネームってやつ?」
「そうでもないよ。奏鳴曲はソナタの和名だから。普通にソウメイって呼んでくれてもいい。」
「呼びにくいってそれ。」
「よく言われる。」
フッと笑って、けれど大抵ソウちゃんとかソウメーと呼ばれるのだと彼は言っていた。
ソナタと呼ばれることはあんまりないらしい。
名前を書いた時に大抵の人がソウメイと読んでしまうから、言いなおすのも面倒でそのままなんだとか。
「じゃあ折角だし、面倒な説明してくれたから奏鳴(ソナタ)くんって呼ぶよ。」
ゆるく笑えば彼は「そう。」と言うだけだった。
勝敗に関して言えば完敗したものの。
その日からあたしと奏鳴くんは店内で顔を合わすと話すようになり、夜が明けると近場のファミレスで食事して帰る程度の顔見知りになった。
多分、友達ではなかったと思う。
だってお互い、名前しか知らないし。
互いに互いの詮索もしてなかったから。
奏鳴くんはあたしがどんなにボロボロの見た目になっても何も聞かなかった。
あたしだってあんた何者なの?とか何してる人なの?とかは聞かなかった。
そういう関係が、楽だった。
正直、現実に疲れ果ててた時だから。
好きなことを勉強してるのに、好きなことに息を詰まらせて。
彼氏に癒してもらおうにも男を見る目のないあたしは、好きなこと以上に好きになった人に追い詰められて。
最終的には奏鳴くんに会いに行くような生活してたから。
「ねえ…、奏鳴きゅん…。」
「何その呼び方。気持ち悪いんだけど。」
「可愛いでしょ。」
「女の可愛いって言葉ほど信用ならないものもないよね。」
「あー言えばこういうなー…。」
「それで、何?」
彼は見た目も態度もチャラかったし、遊んでることも普通に聞いてたけど。
あたしには一切手を出してこなかった。
店に入れば結構グラマラスな女の人にキスしてたり、体触って店の隅でイチャついてたりって姿はよく見てたから。
「なんであたしには手、出さないの?」
その日も結構ギリギリラインのイチャつき加減を見た後だった。
ただ彼はお持ち帰りすることはなく、夜が明ける頃まで店にいて。
あたしが居れば当たり前に近場のファミレスに行くことが当然の流れになってたのだ。
「傷物の女とかあり得ないじゃん。」
「ハッキリ言うな〜。君はもう奏鳴きゅんで決定だ。」
「可愛いからいいよ。」
「あたしの可愛いは信用ならないとか言ったくせに。」
「女のって言ったんだよ。まあ棗の可愛いは悪趣味だとは思うけど。」
「どんだけ貶すかな。あたしの感性全否定じゃん。」
机に突っ伏しながらむっつりと視線だけあげると。
奏鳴きゅんは小さく笑ってあたしの頭に手を置いてきた。
悪趣味な義手の感触は硬くて冷たいのに、なぜか落ち着いた。
そういうことを繰り返したある日のことだ。
その日、あたしは早朝になって店を訪れていた。
いや、実際は店に入ることはせず。
階段を上がった二階まで登ることもしないで、階段の一番下で座り込んでた。
「何やってんの?」
そうして不意に聞こえてくる聞きなれた声音を待っていたから、
「お腹、空いたな〜……って。」
振り返りながらゆるく笑えば、彼は無言で降りてきた。
酷い顔してたと思う。
だって今しがた殴られて飛び出してきたところだから。
腕も足も打撲の痕がありありと浮かび、手当もせずに来ていたから。
「ぶっさいくな顔で奢れってよく言えるね。」
「そんなに酷い?」
「鏡見たことないの?」
「見たくないの。」
にっこり笑うと、奏鳴くんは興味なさげにふうんって言って。
なにも聞かずにファミレスに付き合ってくれる。
率直にズケズケとものを言う奴だけど、寧ろそれが心地よかった。
どうしたの?とか、大丈夫?とかなにがあったの?なんて言葉はいらなかったし。
だからって怒鳴られる声も聞き飽きてたし。
同情も、理不尽な言葉もない彼のよく言えば素直な態度は居心地良かったのだ。
「お腹空いたんじゃないの?なんでドリンクバーだけ?」
「食べたいものなかったから。」
「我儘。」
「我儘ついでにもうひとつ言っていい?」
「なに?」
その時のあたしは相当参ってた。
なんかもう全てにおいてボロボロで。
勉強は楽しいくせに人生はズタボロだったから。
生きること向いてないのかなあとか思ってたくらいだから。
「どっか連れ去ってくれない?」
「………どっかって?」
「どっかはどっかだよ。どっか遠いところ。」
「………」
だからきっと、そんなこと言っちゃったんだと思う。
率直に助けてとか逃げたいって言葉は言えなくて、言ったら泣きそうだったから。
遠回しに告げたそれは、けれど奏鳴くんの無表情を見ると苦笑しちゃって…
「嘘。忘れて。」
馬鹿なこと言ったなって自覚して、ケロリと笑ってたのだ。
名前しか知らない男に何言ってんだか、と。
だからあたしは男見る目ないんだって、と。
結局、ドリンクバーだって一杯だけしか飲まず。
そのまま別れてたんだけど。
でも早々にあたしは彼に連絡を取ってた。
しかも深夜を優に過ぎた非常識な時間に電話して、しかもそれに普通に出てくれる声音に…。
「煙草、買ってきてくれない?」
そんな言葉で呼び出してたのだ。
自分の住んでるマンションの住所を告げて一方的に切っちゃって。
ほんと、どうしようもないなって思うけど。
どうしようもないあたしの我儘に、彼は1時間後。
インターホンを鳴らして玄関先に立っていた。
しかもなんにも持ってない姿で。
「煙草は?」
「あるよ。」
今吸ってるじゃん?って彼は咥えた煙草を外しながらあたしに手渡してきた。
それに手を伸ばすと、奏鳴くんはあたしの手首を掴みながら…
「彼氏は?」
…と、何も言ってないあたしの男事情を見透かした物言いには苦笑してしまった。
まあこれだけ殴られた痕を見せていたし。
年齢的にも親からの虐待なんてまずあり得ないし。
そうなってくると考えられる可能性は絞り込まれてしまう。
「大丈夫。もう帰ってこないよ。」
あがって、と笑いながら部屋に戻り。
家具も何もない部屋で腰を下ろしながら貰った煙草を吸い込んでいた。
そんなあたしの隣に座り込んでくる奏鳴くんは相変わらず何も聞いてこないから。
でもだからって大概のことはこの部屋の惨状を見て把握もしてるだろうから。
「帰ってきたら家具ひとつ残ってなくてビックリだよ。しかも有り全部持ってかれてた。」
隠そうとするのもアホらしくなって自分から笑って告げていたのだ。
「ふうん…。」
奏鳴は相変わらずどうでも良さそうに相槌を打ってきて、だからってあたしの隣から立ち上がることもなくて。
そういうの、その時のあたしには堪らなく縋りたい衝動を後押しされたようで…。
自分からだった。
最初は、あたしからだった。
彼の唇を奪い、空っぽの部屋で独特の甘さを漂わせる煙草の香りと共に。
「慰めてよ。」
「そういうの得意じゃないんだけど。」
「慰めるのに得意、不得意とかないでしょ。」
「あるって。可哀想だってお世辞でも思えないから。」
「じゃあがんばって。」
「我儘もここまでくると清々しいね。」
軽く蔑まれてるようなヴァイオレットの眼差しに、あたしは腕を回しながら小首を傾げていた。
「じゃあなんで来たのよ。」
「馬鹿な女だなあって見てるの楽しいからかな。」
「クソだね、君は。」
「男見る目ない棗が悪いんじゃない?」
そんな会話でその日の夜。
あたしは奏鳴くんに抱かれたのだ。
気持ちよかったとか、テクニックがすごかったとか。
全く覚えてなかった。
ただ人肌の熱に安堵して、ベットもない床の上で現実逃避できる時間が終わらなければいいのにって…。
我ながら本当にどうしようもないこと思ってたことだけは覚えてる。
「あ、はは……っ。」
そんな思考回路しかなかったから、突然笑い出したあたしに。
「なんで笑うの?」
行為の途中で喘ぐならまだしも、それまで我慢してたものが全部とっぱらわれたようなありのままの姿になったからなのか。
「いや、きもちーなって思って…。」
「………」
なんにもないんだなと、改めて実感すると笑えたし。
その中で気持ちいいのも笑えたし。
何より、
「すっごい陳腐な事思っちゃったよ。」
「なに?」
「奏鳴きゅんを好きになればよかったなって…っ。」
「ほんと、男見る目ないね。」
馬鹿な女、と。
そう言われることには笑ってたのに泣いていた。
笑うか泣くかどっちかにしなよって上から聞こえて。
結構不気味だよって言われることには余計に笑ったし泣いていた。
なんかもう堕ちるとこまで堕ちると人間、開き直れるんだなってわかって。
「人間って、思ったよりしぶといね。」
生きてる意味あるのかなって思うくせに死ぬことは怖くて。
何もかも奪われたのに、こうして慰められる熱に慰められることで終わろうと思える。
リセットされたように、また明日も生きてんだろうなって。
弱いのか強いのかよくわからい動物だと、ケラケラ笑って泣いていた。
そんなあたしに、彼はそうだねって言って。
「どうせならそのままとことん壊れたほうがラクなんじゃない?」
…って、たまにとんでもないこと言うのだ。
ただその時のあたしは、ギョッとしてこいつイかれてるって恐怖を滲ませるより。
「じゃあ、壊してよ。」
リセットさせてと、彼の言葉にすがってたのだ。
相当堕ちてたからこその言葉だったと思う。
だから訳もわからず快楽と痛みと虚しさを全部壊してくれる熱に、作り変えられるような気分で身を委ねていたのだろう。
その日、あたしは初めて奏鳴くんと一夜を共にした。
寝起きに彼が居るのも初めてで、
「お腹すいたー……。」
「どっか食べに行こうか。」
空っぽな部屋に残ってるもんなんてなんにもないし。
初めて一夜を共に過ごした男は違和感もなくいつも通りファミレスに向かう道をたどっていた。
ただいつもと違うのは手を繋がれてたことくらいだろうか?
「デートみたいだねえ。」
「デートなんですねえ。」
「ファミレス行くことが?」
「手を繋ぐことが。」
「遊び人の感覚はちょろいなあ。」
「そのちょろさに遊ばれてる女には言われたくないね。」
「ちょろいの好きなくせに。」
「棗は言うほどちょろくないから嫌いだよ。」
ゆったりと歩く道のりの中。
フッと笑われて言われた言葉にはよくわからずキョトンとしてた。
ただそれを考える暇もなく。
運悪く、あたしの全財産も家具すらも奪い取った男と鉢合わせてしまったのだ。
この浮気者!とか、アバズレが!とか。
罵倒の限りにいきなり殴りかかられ。
自分も他の女と歩いてるくせに棚に上げた責め苦にされるがまま。
終いにはナイフまで振り回されて身の危険に震えたんだけど。
奏鳴くんはその男の顔に躊躇いもなく、吸っていた煙草を押し付けていた。
ぎゃああっと呻く男の声音が酷く不愉快だと言わんばかりに。
奏鳴くんは男の口に煙草を放り込み、彼が持っていたナイフを奪って肩に突き刺すまでの躊躇いのなさには驚くわ通り越して呆然としたものだ。
それでも上がる悲鳴に、うるさいなあと。
まるで聞いていた音楽を止めるかのように、顔色ひとつかえないで男が動かなくなっても殴り続けるから。
流石にゾッとしてあたしが止めに入った時。
奏鳴くんはゆるく笑って返り血を浴びた姿のまま。
「ほらね?棗はほんと、男見る目ないよ。」
そう言って、血の味がする口付けをしてきたのだ。
意味がわからなかったし、わかった気もした。
「責任、取ってよね。」
「…は?」
多分、あたしは…
「ここまでさせるほど…」
生まれつき、
「惚れさせたんだから。」
男運が皆無なんだなって。
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