凛ちゃんはペット
人生に驚きはつきものだ。
いつもの日常が突如として非現実に変わる。
それは大抵、平和ボケしていればまるで小説やドラマの中のように鼻で笑われるようなこと。
ストーリーとして、そして設定としては面白いと思うこと。
それらが自分の身に降り掛かることなどあり得ないと思っている。
あたしもそうだった。
とんでもないファンタジー小説が好きで、現実的な恋愛観など特に興味もない。
趣味は映画鑑賞をしながら飼い猫と遊ぶこと。
いつまで独身を続ける気だと散々言われ続けて24年。
それなりにキャリアもあり、稼ぎもあり、なんら苦労はしていない人生を歩んでいた。
そう。
あの日までは…。
その日は土砂降りの雨で、梅雨とは言え憂鬱な気分が抜けない日だった。
あたしの会社の部署の人が病気で倒れ、そしてそのままお亡くなりになられてしまい。
葬儀に参加するまでの流れに身を任せていたのだ。
特に人の死を悲しいと思ったことがないあたしは幸せに暮らしてきたんだろうとよく言われる。
実際不幸せではない。
父も母も健在だし、ヤンチャな弟は都会へ出て遊び呆けてはいるがなんだかんだ元気でやってる。
身近な人を亡くした事がないという点においては、はいその通りですと言えるが。
そういう意味で死を悲しいと思った事がないと、断言しているのではない。
あたしは寧ろ、参列者が全員黒衣を装い。
棺を前にして悲しみに共感し、線香の香りと共に聞かされる経を読む声が、
そして青白いというより真っ白で目が開くこともない同じ人間だったモノを見るのが怖いという概念が先にあるのだ。
だから気分は憂鬱。
お世話になった人であるし、きちんと礼儀は弁えておかないと。
そうは思うけれど、よく考える。
死体を前にして、本当にその人はそこに居るのだろうか?と。
その日もそう思っていた。
口には出さないけれど、空っぽのご遺体を前にして誰もが正座し。
なんの疑問もなく手を合わせているのかと思うとゾッとする。
もぬけの殻である人だったモノに、何故涙なんか流せるのかわからなくなる。
大切な人を失う悲しみは壮絶だと、小説にだって描かれてはいるけれど。
実際のところ、それはもう隣に居ないことへの悲しみであって。
思い出が鮮明に蘇るからのものであって。
空っぽの大切な人の形に手を合わせるモノとは違うような気がするのだ。
そんなどんよりと憂鬱で、わずかな恐怖心を飲み込みながら。
あたしはなんとか葬儀を終え、挨拶を交わして帰路をたどっていたのだ。
「やっと終わった……。」
この歳になるまで幾度か葬儀というものには出てきたけれど、どうにも慣れない。
慣れるもの、とは言わないのだろうけれど。
あたしだったら自分がそこにいないのに身近な人があたしではないあたしに涙を流されるなんてごめんだと思う。
幽霊とか不可思議なものを信じているかと問われると、いえす。
そういうものはちゃんと居ると思ってるし、だからってそれはどっちかと言えばって話しなんだけど。
いや、もういいや。
取り敢えずさっさと帰って熱いシャワーを浴びよう。
そんな考えに至り、自分のマンションまであとわずかってとき。
あたしは、
「え…」
雨の中、黒く淀んだ雨水に混ざり。
超自然的な雨でもそんな色は絶対にないと思う、赤く滲んだ水を足で踏んでいたのだ。
轟々と唸る雨音を遠くに、雨水管へと吸い込まれていくそれを見て。
あたしは恐る恐る顔を上げながら、路地の隙間を凝視してしまっていた。
そこで人がひとり、ぱったりと倒れており。
その倒れた人の隣では、ナイフ片手に虚無の眼差しを下ろす男が突っ立っていた。
つまり、殺人現場に居合わせた。
その理解が追い付くことは、短時間では無理だったし。
そもそも理解することをあたし自身が拒絶していた。
逃げればいいのか、悲鳴を上げればいいのか、それとも110番をしたほうがいいのか。
そんな冷静さもなく、ただただ非現実な光景に立ち尽くしていたのだけど。
不意に目の前の男があたしの存在に気付き、軽く舌打ちをしたのである。
その音を皮切りにしたんだろう。
あたしは持っていた傘を捨てて駆け出していた。
ほとんど無意識に、そして本能的だった。
危機感が高まり、見たからには殺されるって。
なんの刑事ドラマか、それとも映画かと思うような思考をしてたんだと思う。
その時は必死すぎてわけわかんなかったけど。
兎に角、自分の日常に戻りたかった。
だからこそびしょ濡れになって自分の部屋に駆け込み、鍵を閉めて玄関にうずくまるまで。
あたしの心臓はバクバクと、ものすごい速さで暴走する音を響かせてきたけれど。
時間が経てばそれらはゆっくりと確かにいつもの音に戻る。
「はあ……っ。」
大きくため息を吐き出し、理解が未だ追いつかない身体の重さだけを感じて。
垣間見たあの光景がまるで現実なのかも判断がつかないまま。
あたしは濡れた身体を温めようと浴室に行っていたのだ。
人間、自分のキャパを超えるようなものを見てしまうと無意識にその記憶を消してしまうものなのか。
それとも自分が見たものすら信じられず、どこか異世界にでも迷い込んだ気分で日常に戻ってしまえるのか。
自分の心理的な行動すら分からなかったけれど、警察に通報するだとか、殺されるだとか。
そんな危機感は平和ボケしていたあたしにはなく、自分の日常の片隅に戻れたことにホッとして。
いつも通りの手順でシャワーを浴び、着替え、寝る準備をして寝室に入っていたのだ。
精神状態からしてこれは強いとは絶対言えないだろう。
わけのわからないまま自分が崩壊することを無意識に守ったように思える。
だからこそ疲れ切った身体を休めるためにベットへと横になり。
愛猫である黒い彼がゲージの中でスヤスヤと寝て居る様を見つめて心の安寧に目を閉じようとしたのだ。
悪い夢を見たのだと。
それくらいのものだと思えないとあたしは自分を保ってられなかったんだ。
でも…、
「う、ん…?」
夜中の3時頃だった。
不意に聞こえた物音に目を覚ましたのだ。
夜行性である彼がゲージの中で目を覚まし、また遊んでいるのだろうと思う程度の目覚めはよくあることで。
「元気だねえ、クーちゃん。」
小さく笑って様子を見ようと身体を横に向けた時だった。
「え…、」
暗がりの部屋の中。
月明かりが差し込む部屋で、あたしが呼んだ黒い彼は何故か部屋の隅に放り投げられていた。
周りには黒々とした液体が広がっており、
いやそもそもどうしてカーテンが開いてるのかとか。
月明かりを遮るようにちゃんとカーテンは閉めてたはずなのにって。
どうして、夜風があたしの肌を撫で。
どうして、あたしの部屋に男がいるのか。
理解の追いつかないあたしの目の前では、クーちゃんを横目に振り返ってくる男がおもむろに近寄ってきたのだ。
手には銀に光るナイフを持ち、その切っ先は猫を刺し殺したとしか思えない血で濡れている。
わけがわからず、これも夢なのかとあたしの精神状態は現実逃避をしようとがんばっていた。
だって夕刻に見たあの男が今目の前にいるのだ。
悪夢としか思えない。
でも、
「痛みは一瞬だ。そのまま寝てるといい。」
悪夢はやけに優しげな声で、あたしの頭をそっと撫でながら。
まるで子供をあやすように囁いてきたのだ。
意味がわからないとか、理解が追いつかないとか。
困惑をありありと滲ませることもその時のあたしにはできなかった。
その言葉に思い浮かぶのは今日の葬儀だ。
あたしは空っぽになってしまうのかと。
空っぽになってどこに行くんだろうと。
死に悲しみを抱いたことは無いけれど。
あたしは昔から人一倍、死への恐怖はあったもんだから。
_____殺らなきゃ殺られる。
そう思った瞬間、自分でも驚くほどの行動に出ていた。
目の前の男が光らせるナイフへと手を伸ばし、油断した彼の握力から難なくナイフを奪い。
そのまま彼に向けて突進していたのだ。
ただそれは、ぐっさりと肉を抉る感触なんてものではなく。
驚きざまに、けれどあたしの身体ごとの攻撃を受け止めながら脇でナイフを空振りさせられていた。
だからこそ次なる手段は身体ごと押さえ込まれる前に押し倒さないとって。
本能が殺されることを拒むままにあたしはその男の足を引っ掛けて馬乗りになり、
交わされたナイフを握りしめて高々と目の前の男に向けていたのである。
その一連の行動に、男は黒髪の合間から月と同じ色をした瞳を軽く開かせていた。
曇った灰色の瞳には本当にこれがあたしなのかという姿が小さく写っており。
ふーっ、ふーっ、と興奮したように身を守ることで手一杯のあたしを見上げて、
「ま、死にたくはねえわな…。」
ゆるりと形のいい唇に弧を描き、あたしの頰を辿るのだ。
その熱にビクつきながらナイフの柄を力強く握りしめていれば、
「でもいいの?お前、俺と同じになる気?」
なんて問いには身体が固まった。
同じって、なに?
そんな疑問で一瞬の隙ができたらしい。
男はそれを逃さずあたしと身体を入れ替え、押さえつけられることに油断したと目を見張ってしまった。
その瞬間暴れようとしたあたしに、何故か男はとんでもなく優しい口づけを重ねてきたのである。
「……っ!?」
ただそれは普通の口づけってものではなく、喉奥に何か入れられたのである。
飲み込むもんかともがくものの、深く重なる唇と。
身体を押さえつけられる強さに敵う事なく、あたしは彼の舌先で押し込まれた異物を飲み込んでしまったのだ。
吐き出そうと躍起になって口に指を突っ込もうと身体を動かすものの、
男は静かにあたしの手に指を絡めながらそれをさせてくれず、
「見られたからには帰せねえんだわ。」
「…い、や…っ!!嫌…っ!!誰にも言わないからっ!!」
「じゃあ大人しく死んでくれ。永遠に口を閉ざすって誓うんだろう?」
「……っそ、んな。」
目の前では変わらぬ微笑みを浮かべた男が、変わらぬ優しげな声音を落としてくる。
こんな状況下に似合わぬそれは安堵できるものではなく、寧ろ怖いものだった。
ただ、
「それとも、俺に飼われてみる?」
「は…、」
まるで悪戯っ子のように笑ってあたしを覗き込んでくる曇った灰色の瞳。
この男は何を言ってるんだろうか?
死ねと言うくせに、飼われてみるかなんて。
ていうか何を飲んだのかわからないあたしは既に死亡フラグを踏んでるんじゃ無いかと思うのに。
「早く決めねえと死ぬよ?お姉さん。」
眠るように死ねる毒だから、痛みはないけどって。
あたしが息をひきとる様を見ていてやろうとでも言うように見つめ下ろしてくる男にはゾッとした。
もう一度体に力を入れてみるものの、上から男の力に押さえ込まれているのだ。
どうにもならない。
そしてわけがわからなくても、生きるためにはこのままじゃ絶対ダメだ。
それだけは本能的にわかり、あたしは…
「死にたくっ、ない……っ!!」
ただひと言。
今吐き出せる最大の望みはそれだけだった。
男はそんなあたしの言葉を回答と取ったのか。
懐から何やら注射器を取り出してあたしの首筋に躊躇いもなく打ち込んできたのだ。
チクッとする痛みにビクついて、今度はまた何をされたのかと震える中。
男は注射器を抜くなりあたしの身体を辿りながら、
「じゃあ名前つけないとな。」
なんて、こっちからしたら現実味が一切ない状況であるのに。
男からすればペットを拾ったというありふれた日常のように陽気な声を出すのだ。
しかもペットとして名前を考案されているのはまさにあたし。
これは助かったと思えばいいのか。
それとも地獄の始まりなのか。
悪夢にしてはリアル過ぎていて、いつ眼が覚めるのかと思いたいが。
もうそんな現実逃避は無意味なところまで来ている。
あたしは完璧に、この男が犯した犯罪に巻き込まれたのだ。
そして、
「凛(リン)ちゃんにしよう。」
あたしは殺人犯のペットとしての名をつけられた。
うわあ、すごい。
なんかの映画みたい。
あたしは既に理解することを諦め、この状況を遠くから見るように無だった。
犯罪者とのメロドラマってなかなかスリルがあってアクション映画大好きだからよく見たなあって。
何かがプッツンと切れたのだと思う。
怖いとか、ありえないとか、これからどうなるんだろうとか。
そういうの考えられる状態でもなかったし。
反抗してももう遅い所にいるのは嫌でもわかるし。
なにより人を平気で殺すような人に、もう一度楯突くなんてあたしには無理だ。
あの時は無意識に殺される前に殺さなきゃって思ってしまったけど。
そんなあたしの特攻を簡単に避けて、ペットにされるような男に勝てると思えるほど馬鹿ではない。
こんなわけわからない思考を持った人に、平和ボケしたままのあたしでいたら、なんか色々と壊れる気がした。
だから、
「さあて、行こうか凛ちゃん。」
「えっと…、どこに?」
「帰るんだよ。家に。」
「………はあ。」
当たり前のように言う家という場所は、あたしにとってはここなのだけど。
そうは思っても既にプッツンしていたあたしは考えることをやめていた。
兎に角生きている。
それでいいと思っておかないと発狂でもしそうで。
だからこそ男に連れられるがまま。
愛猫のクーちゃんを見た時は一瞬現実に引き戻され、自分もこんな状態にされていたのかもと思うと大人しく言うことを聞いたのだ。
可愛がっていたのにとか。
家族を1人失ったとか。
そんな思考はまるでなかった。
自分の危機感に怯え、あたしの代わりのように空っぽの姿になったクーちゃんを怖いと思ってしまったのだ。
そうして連れてこられたのは、街の中心部に建てられている高層マンション。
高級ホテル並みのその部屋に、あたしは呆然とした。
田舎を出て、それなりに都会暮らしは慣れてるけれど。
湯水のようにお金を持ってる人たちとの付き合いなんかない。
平々凡々の本当に一般的庶民のあたしからしたら男の何もかもが非現実だった。
まあそれは逆にありがたいことでもあったけれど。
下手に近親間の湧くようなものがあればあたしは一気に恐怖に飲み込まれて、この現実を受け止められる気がしなかったし。
そんな中、
「凛ちゃん、お腹空いてる?ああ、でも汚れたから先に一緒に風呂に入ろうか?」
「いっしょ、に…?」
待って。ちょっと待って。
にこやかに血に濡れた服を見下ろして、あたしの手をそのまま引いていく男の思考がさっぱりわからない。
いや、わかっちゃダメだ。
この人の思考を理解できてしまったらそれこそ人として終わる。
いや、今のあたしはペットだから理解するまでもなく言いなりになっておけばいいんだ、うん。
精神状態は最早ある意味で崩壊気味だったと思う。
あたしが思うありえない状況をことごとく提示してくるもんだから、
下手に現実味のないこの状況だからこそ未だに自分を保ってられだのだろう。
そのまま脱衣室に連れ込まれ、さっさと汚れた服を脱ぎ捨てる男には呆然としていた。
そして、
「い、いやああっ!!変質者!!変態っ!!」
あたしは男慣れってものは特別していない。
そもそも目の前で男が脱ぎ出す状況を目の当たりにするような事なんてあっていいわけない。
別の意味で叫んでいたあたしにその男は、
「変質者…?!この家に侵入するとか舐め腐ってんな。」
なんて言って腰に差していたらしいナイフの柄を握りしめ、あたしを背後にやると。
脱衣室の扉を開け、辺りを伺っているのである。
変質者が変質者を警戒しているのだ。
どうして自分が変質者だという考えに至らないのだろうか?
「なんだ、誰もいねえじゃん。凛ちゃんなに見たの?」
あなたですよ、あなた。
他に誰がいるんですか?
そんな事はもちろん言えるはずもない。
下手な事言ってぶっ刺されたらひとたまりもない。
だからこそすいません、と小さく呟いていた。
兎に角だ。
彼の身体を見なければいいのだ。
そうだそうだ。
そうしよう。
なんて思っていれば男はナイフを雑に置いてあたしに近寄り、寝間着姿だったあたしのパジャマに手をかけてきたのである。
「え、ちょ…っ、なにして……っ」
「なにって脱がしてんじゃん。」
「いや、なんで……」
「風呂に入るからに決まってるじゃん。」
そうか。お風呂に入るんだった。
そうだった。
いやだからって、
「じ、自分で脱げます…っ!」
なぜに男の人に脱がされなきゃならんのだ?!
しかも殺人犯に!!
思考が追い付くなり彼の手を止めたのだけど、
「ペットの世話すんのは飼い主の役目だからなんもしなくていい。」
…ああ、そうだった。
あたしペットだった。
もう状況を理解することを放棄した頭でそうだったそうだったと、されるがままになるのは早かった。
だがしかし、
「凛ちゃん、そんな縮こまられたら洗えない。」
すっぽんぽんで殺人犯とお風呂!
しかも身体を洗われるという拷問に理解もクソもなかった!!
神様は一体あたしになんでこんな過酷な試練をお与えになったのだろう?
なんて考えるくらいには恥ずかしさと、目のやり場に困って浴室の片隅に逃げていたのだ。
「凛ちゃん、」
「〜〜〜っ。」
無理無理無理無理無理!!!
いくら自分はペットだと思い込んでも、身体を男の人に洗われるとかなんのプレイですか?!
ブンブン首を左右に振るあたしに、男はため息をついてあたしの頭を撫でてくるのだ。
「猫はお風呂嫌いって知ってたけど、ここまでとは。」
にゃんこ?
あたしはにゃんこだったのか?!
この人の目にはもふもふした愛くるしい猫に見えてるのか。
すごいわ、ほんと。
この人の見える世界ってファンタジーじゃん!
「でも汚いとそのうち身体にバイキン入って危ないから洗うよ。」
「え、ちょ……っ!」
あまりにも優しい手つきで撫でられていたと思えば、強制的に腕を引かれて彼の腕の中でシャワーを浴びていた。
あたしが暴れても片腕に抱きとめられており、もう片方の手があたしの身体を洗ってくるのだ。
ええ、それはもう。
女としては隠したい部分も触られたくないところも躊躇いなく。
恥ずかしくて死にそうとはこういうことだろう。
24年も生きてきて、あたしは何故見ず知らずの男に身体を洗われる羽目になっているのか。
そこまで考えると今日の夕方見てしまった光景が脳裏に浮かんで固く目を瞑っていた。
小刻みに身体を震わせ、葬儀に出ていた線香の香りまで思い出し。
怖くなったのだ。
あれを見なければ。
立ち止まらなければ。
なににも気付かず帰れていたら、あたしはまた明日から仕事に行く日々が待っていた。
そう思うとやけに現実味が増してきて、自分の状況に声の限りで発狂しそうになったんだけど。
「ひゃん…?!」
不意に首筋を甘噛みされ、控えめとしか言えない胸を揉まれる感覚にそれまでの思考が吹っ飛んでいた。
なになになに?!と振り返れば、曇った灰色の瞳があたしの肌に吸い付きながら
「怖くない怖くない。」
なんて慰めるようにあたしの頭を撫で、そのくせもう片方の手は下腹部へと伸ばされていたのだ。
「ちょ…!なん…っ、やめ!なんで…っ!」
「ペットを愛でるのは飼い主の役目だろう?」
「〜〜〜っ!!」
そんな理屈があっていいのだろうか?
それに、ハイそうですねって言えるわけない。
だけどその時のあたしは恐怖を塗り替えられる快楽に、どこか安堵もしていたのだ。
思い出したらきっと、あたしは殺されるより酷い死に方をすると思ったから。
物理的にではなく、精神的に死にそうな気がしたから。
だからこそ、
「……っあ、は……っ。」
「凛ちゃん、背中綺麗だね。」
「………っ、」
触られることに、抵抗をしなかった。
後ろから攻め立てられ、酷く優しい声音のくせに。
触る手つきは力強く押さえ込んできて。
本当に人間以下になったような気すらして、喘ぐだけというみっともない姿でしかいられなかった。
けれど男は、
「いい猫、拾ったな。」
なんて言いながらあたしを何度だって堪能し、
「凛ちゃん、口開けて。」
あたしを貪って、
「首輪は赤にしようか?凛ちゃんの綺麗な黒い毛並みによく似合う。」
甘く髪を梳き、耳を甘噛みされて。
あたしの首に軽く力を込めながら長い指を回してくる男の行為を受け止めるのに必死だった。
わかろうとはもう思わなかった。
この状況のおかしさも、何故こんなことになったのかも。
だって、
「怖いことはなにもないよ、凛ちゃん。」
「う、ん……っ。」
その言葉にすがってしまったから。
ここまでされたらもうこの人しか頼りはないのだ。
殺される可能性しかなかった状況で、なんの気まぐれか。
あたしを愛でることに決めたらしいこの人に、お前が一番怖えよって言えるほど。
その時のあたしは理性的でもなかった。
それに人間、自分の安全確保のためなら無意識に現実から目をそらすもんだ。
抱きすくめられることにされるがままになって、おもむろに自分からも腕を回してみれば
その男は可愛いね、と相変わらずの甘い声音であたしに軽い口づけをする。
そのまま再び攻められ、快楽に沈んでいつのまにか眠りこけてしまったあたしの翌朝は。
「………っ、」
当然腰はかなり痛かったし、一瞬ここはどこだと思ったけど。
それよりなにより、見下ろす自分の身体がすっぽんぽんで。
しかも無数のキスマークがあたしの身に起きたことを物語っていた。
「悪夢だ…。」
思わず呟きながら、自分の身体をなぞり。
仕事に行かなきゃ、とか。
いやその前に警察だろうとか。
昨日まで破綻しかけていた精神状態の回復が見られ、ゆっくりと冷静に頭を回していたのだけど。
「おはよう、凛ちゃん。」
不意にあたしをペットにすると言い出した殺人犯がにこやかに入ってきたことには咄嗟に身体を隠していた。
いやもう全部見られてるけど。
それとこれとは話しが別だ。
「あ、あの。あなたは一体…、」
「泉(イズミ)でいいよ。あ、ご主人様でも可。」
「泉さんは、一体何者なのでしょうか?」
「綺麗にスルーしたなあ。まあいいけど。何者って言われても、凛ちゃんの飼い主だよね。」
「いや、そうじゃなくて…!」
これ立派な犯罪ですよ?!
拉致監禁ですよ?!
付け加えて叫んだあたしに男はキョトンとして、それからケラケラと笑いだすのだ。
「それがなに?」
「は…、」
「凛ちゃんにあるのは俺に殺されるか、飼われるかって選択肢だけだ。拉致監禁を自分から望んだのはお前だろう?」
「…っ、」
「それとも殺されたくなった?」
いいよ、今から息の根を止めても。
彼はそう言ってゆったりと近づいてくるもんだから咄嗟にベットから降りようとしたんだけど。
そんなことさせてもらえるなら、あたしは昨日逃げ出せていたはずだ。
当たり前にベットへと押さえ込まれ、裸体を晒してることに羞恥心なんか湧くより先に。
泉と名乗った男を睨みあげていた。
「懐かせるのには時間のかかりそうなヤンチャにゃんこだなあ。」
「ふざけないでっ!!警察に通報してやるっ!!」
「あ、そう。そんなに死にたいのか。残念だ。」
「ご主人様っ!!冗談に決まってるじゃないですか!!」
あっぶねえ!!
下手な反抗イコール死だったわ!!
咄嗟に取り繕えば泉さんはクスクスと笑いながらあたしの顎下をくすぐってくるのだ。
「昨日より元気になったみたいで良かったよ。」
なんて言って起こしてくれて、あたしに男物のシャツ一枚を被せてくる泉さん。
こうして見ているとただの普通の人にしか見えないのに。
人を平気で殺すような人には見えないのに。
「はい、あーんして。」
「いえ、自分で食べられます。」
「ダメだよ。ペットの世話をするのは飼い主の義務だ。」
「いや、だからって…」
「言うこと聞かなきゃ殺しちゃうぞ?」
「いただきますっ!」
脅しを交えた躾をされる朝食の時間。
普通の人とか思ったのは速攻で取り消しました!!!
にこやかに殺すって言葉を使って冗談に聞こえない人なんて本当にいるんですね!!!
そんな勢いで口元に持ってこられた卵焼きにかぶりつけば、
「これからよろしくね、凛ちゃん。」
泉さんはそう言ってあたしの頭を撫でてきて、
「俺にだけ愛でられてたら何も怖いことなんかないから。」
甘いマスクと酷く優しい熱。
殺人犯の常識はずれの思考なんてさっぱりわからないが、
最早脅しにしか聞こえないその言葉に、
さて、あなたならどうしますか?
1.一生ペットとして愛でられる
2.脱出計画を立てる
3.殺人犯の殺人計画を立てる
あたしがとった行動は…
ご想像にお任せします。
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