ジャッジメンタル
口に花を、心に目を。
「約束だよ?せーんせっ。」
にこやかに笑って、今日も派手な格好した男があたしを追い込んでくることには…。
どうしてこうなった?と思わざる終えない。
三十路を突っ走る独身女であるあたしに魅力があるとも思えない。
もちろん、身なりには気を使っているがそれは大人として当然の身だしなみをしてますってだけ。
世の中の大人たちが当たり前にしてることだ。
「ちょっと待ってよ…っ。本気?」
恐る恐る聞きながら、短くなった髪を耳にかけてそろりと見つめていた。
ショートボブに整えられた黒髪は肩のあたりでカールしてふんわりと揺れるスタイル。
重みのなくなった頭は軽く、けれど頭の中は今目の前の光景に対して困惑の重りを回していた。
「本気もなにも…、先生が約束してくれたことじゃん?」
人の家の寝室で上着を脱ぎ、ベットを軋ませながら乗り上げてくる男には目眩すらする。
だってこの人、あたしより大分年下なのよ?
やっと二十歳になったようなガキよ?
ていうかあたしの患者なんだけど…っ!
「それとも先生…、俺との約束破る気?」
一瞬で仄暗い眼差しに変わり、あたしを責めるように見つめてくることには口ごもってしまう。
確かに約束はした。
したんだけど…っ。
本気にもしてなかった。
だって考えなくても分かることでしょう?
「俺がステージに上がれて一曲弾けたら、先生はその身体差し出す約束したよね?」
「……っ、」
あたしの服のボタンに手をかけながら、年下のくせに大人びた甘さで誘導してくる手つき。
なんと慣れたものなんだと凝視するくらい自然に脱がされていくことには抵抗すら浮かばず固まっていた。
気がつけば下着姿にされ、顎を掴まれてるんだから洒落にならない。
「ちょ…っ、ちょっと待ってよ弓弦(ゆずる)くんっ。これは流石に…っ、」
「今更なに言ってんの先生?先生が応えてくれなかったらこの先の俺の人生、全部先生のせいになるんだよ?それでもいいならやめるけど?」
それは脅しと言うんですよ、弓弦くん…っ。
そうは思っても彼だって百も承知で言い放ってくるんだろうから何も言えず。
ていうかこんな危ういことしてしまったらもうこの子の先生ではいられない。
「わ、わかったから…っ!でもひとつだけ約束してっ。」
彼の胸板を押しながら、ギリギリラインを保たなくてはと。
約束とか情欲に流されてこの先の人生が見えないものにするわけにはいかない。
「なあに?」
あたしが押し当てた手を掴みながら、ベロッと舐めてくる姿には年甲斐もなくゾクッとする。
その甘い顔と妖美さで何人の女を食ってきたんでしょうか?!
歳は重ねていても、経験豊富とは言えないあたしの経験値なんてきっと彼には遠く及ばない。
女をその気にささてしまうような甘やかしたくなる懐っこさだって彼の才能なんだろうけど。
そんなものに流されては先生なんてやってられない。
だから、
「最後までは、しないで。それだけは守って。」
あくまでも触るだけにしてと。
そんな言葉を年下に言い放って縋るように見つめてしまう事態となったのは…。
一ヶ月ほど前にまで遡らないといけない。
「貴女に頼みたいんです。」
そう言われたのはわざわざあたしの家を訪れた大学から付き合いのある男だった。
付き合ってるとかそういうのではなく。
悪く言えば単なる腐れ縁。
よく言えば親友のような関係の男友達だ、
ただそいつとはここ数年、連絡も取り合っておらず。
だからって縁を切ったわけでもなく。
互いに気が向けば食事に行くくらいの間柄だった。
そんな男がスーツをきっちりと着て、あたしの家を訪れ。
仕事の話しを持ちかけくるなんてことは初めてで…。
「は…?」
理解が及ばず怪訝な眼差しを向けたのは午後3時のおやつ時。
ティータイムだと淹れていた香りのいい紅茶と、焼きたてクッキーを楽しみにしながら…
次の仕事までリラックスしようと思っていた時間は台無し。
彼を招き入れ、紅茶を出し。
詳しい話しを聞くに至ったあたしは…。
「君に診て欲しい患者がいるんだ。内密に…。」
「患者…?」
「ああ…。弓弦(ゆずる)って男を知ってるか?」
そう言われて差し出されたのは一枚のアルバムだった。
「知ってるも何も…。あたしもこの曲好きでもってるわ。」
「その歌手の弓弦を診て欲しい。」
「………っ待ってよ?この人、アジア圏内でもトップで活躍してるのロックミュージシャンよね?!なんであたしが…!」
「心の病、かどうかはわからないが…。弾けなくなったんだよ。」
そう言って神妙な面持ちをする腐れ縁の男は、芸能界でも顔のきくスポンサーというやつで。
経済学部をトップで卒業しただけはある地位と権力と金を有し。
今では芸能プロダクションまで創立させている敏腕社長様。
かたやあたしは自宅でひっそりと心理学者としてメンタルヘルスをしているフリーの精神科医だ。
意味がわからないとは言わないものの。
そんな大物を診て欲しいと頭を下げられることにはどうしても理解が及ばなかった。
「なんでまた、あたしに……。」
「君の実力は知っている。」
「それって昔のことでしょう?」
「一線を退いてからも、心理学の権威として一目置かれてるだろう?」
「そんなの買い被りすぎだわ。医学は進歩してるしあたしより有能な人は大勢いる。」
「散々他を当たってもダメだったから君を頼ってここに来たんだ。一度でもいい。どうか、診てくれないか?」
誠実で真面目な人。
それが昔からの彼の印象だ。
疑いようもなく信頼される人で、仕事の腕もそれに付随する。
そんな人から頭を下げられてしまえば、美味しくない紅茶も飲み込んで考えてしまうくらいには…。
「そんなに、困ってるわけ?」
「困るというか…。放っておけなくてな……。長年看板として俺の会社の顔になってくれた奴だし。自分ができることはしたいんだよ。」
彼は変わりなくお人好しでいい奴すぎて、
ついついほだされてしまうくらいには昔と変わらない。
肩をすくめて、いいよって言うしかなかったあたしは彼に弱いのかそれとも……。
彼よりお人好しなのかは判断付かなかったけれど…。
ただ、
「あんたが次の先生〜?話すことなんかないしテキトーに終わらせようよ。」
その申し出に頷いたことを後悔するくらいには、
「あ、それともヤっちゃう?先生いい身体してるし?」
にこやかに遊びまくってますと言い切る懐っこい笑みには顔が引きつったし。
この仕事を受けたことに後悔もした。
ロックミュージシャンってやつがどれだけ世間でもてはやされ。
好き放題し尽くしているのかってこと。
噂や週刊誌では見ていたものの、それを鵜呑みにする気はなく。
音楽だけは最高だったからずっと聴いてたのに…。
その本人が自宅に来たことで感動やら歓喜やらもなく、腰を抱かれて迫られることには…。
幻滅こそすれ、靡く気にもなれなかった。
彼の胸板を押してちょっと待てと牽制するように見上げ。
「治療をしに来たんでしょう?そんな気が無いなら、下手に軽い誘いで誤魔化さなくていいから。やりたくないなら帰っていいわよ。」
玄関は君の背後にあると教えてやるくらい、
あたしは伊達に心の病を抱えた人を診てきたわけじゃない。
その立ち振る舞いを見て悟るくらいには、最初から信用する気も治す気もない患者ってのはわかる。
そんなあたしの言葉に、襟足だけ伸ばした黒髪を揺らし。
ピンクのメッシュを入れた派手な髪型の彼がキョトンとしてあたしの睨みを見つめ。
ゆるく笑って小首を傾げながら、
「はあ?俺の誘い断んの?正気?」
なんて態度を示してあたしの顎を掴んでくることには相当だなって思った。
相当女ってもんを舐めてんなと。
「正気です。あたし、ガキには興味ないのよ。」
パンと手を振り払いながら長い黒髪を耳にかけて腕組みをして見上げていた。
それくらい彼の印象は最悪だったし、正直帰ってくれて構わないと思った。
あたしの実力が及ばなかったと思われてもいい。
カウンセリングに来る患者の大抵の奴は、嫌々やってくるし。
自分はマトモだと言い張って時間だけやり過ごそうとする人が多いから。
そのタイプなのだろうとはわかっても、歩み寄るには難しい人もいる。
特にこんなタイプ。
世間でもてはやされることを当たり前とした傲慢な王様タイプ。
自分が望めばなんでも思い通りになると思ってる。
女ですらも。
「あんた、誰に物言ってんのかわかってんの?」
眉根を寄せ、今しがたあたしに払われた手を見ながら。
「俺がテレビでここのこと言えば、あんたは仕事すらできなくなるんだよ?」
評判を地に落とされたいわけ?と、脅してくるたかが二十歳のガキとは思えない態度に。
このアジア圏でトップアーティストとして活躍する弓弦様を頼んで来た彼の苦悩は相当なもんだろうなと思った。
そりゃあどこに行っても匙を投げられるわけだわ。
最初からこの態度の患者に対して、カウンセラーを続けるのはかなりストレスだろうに。
権力と金だけはあるから脅して踏みにじれる相手を、どこまで強気で踏み込めるかってゲームのように仕立てられてしまえばこちらの負けだ。
思わず溜息を吐くくらいには、厄介な頼みを引き受けてしまったなと思わざる終えなかった。
「いいわ。じゃああなたの女の好みを聞かせてくれない?」
「………は?」
そんなあたしの斜め上から放たれる質問に、どうしてそうなるんだと怪訝な顔をする彼だったけれど。
「いいから。髪型とか雰囲気とか、あるでしょう?」
どうなの?と押し切るように問いかけると、
ライブを突如中止してそれ以降の表舞台に一切立たなくなったロックミュージシャンは、眉根を寄せながらもあたしを見つめ。
ニヒルに笑って口を開いたのだ。
「髪の色は黒で、長い方が好きかな。ストレートならなおよし。」
そう言ってあたしの黒髪に触れ、長く細いミュージシャンならではの指に絡めとり。
「雰囲気は、そうだなあ…。手折れそうなくらい儚げで誰にも汚されてないような感じが好きかなあ。」
そのままあたしの頰を辿り、唇に触れて…
「柔らかそうで色白で…。そういうウブそうな、幼げな顔した人が女の顔になる瞬間ってたまらないよね?」
言ってあたしに顔を寄せてくる弓弦は「まさに、先生みたいな?」と笑ってくる。
自分の好みを言ったのではなく、あたしの容姿に関することを連ねてきたのだとわかる悪意の言葉にはフッと笑ってしまった。
「そう、それは残念ね。」
「は…?」
言うや否や、あたしは玄関先に置いてあったハサミを手につかんでいた。
この男が来る前に、ちょうど花瓶へと花を生けていた最中だったのだ。
周りには新聞紙の上に葉や茎が伸びて切り落とされ、結構見栄えのいい出来になったと思ってだ直後にこの男が来たから。
ハサミも出しっぱなしだったんだけど、本当にちょうどいい。
そう思って掴んだそれを手に、あたしは彼の目の前で長い髪を切り落としていた。
「な…?!」
「これであたしは貴方にとっての女じゃないわよね?」
にっこりと笑ってあげると、彼は絶句したまま目を丸くするばかり。
これでも場数だけは踏んでるのよ。
この男が女の好みを聞かれ、ほくそ笑んだ時点で。
あたしの容姿を語って来ることはわかってた。
だからあえて誘導したのだ。
髪の長さや雰囲気は?と。
そしてそれらを目の前で無き者にしてしまえば、彼の言った女は居なくなる。
残るのは、彼を診る為にここで待っていたカウンセラーとしてのあたしだけ。
「あたしは悟(さとり)って言います。あなたのカウンセラーを仰せつかりました。フリーでやっていますが、仕事に関して妥協をする気はありませんので。先生と呼ぶなら、どうぞ部屋に入ってください。」
「…………っ、」
にっこりと笑ったまま、玄関先からすぐ側にある扉を開き。
どうぞ?と施せば、流石の弓弦様も自分の思惑に飲み込まれない女だとわかったのか。
負けを認めて渋々部屋へと入ってくれた。
ソファが机を挟んで対等に並んだ部屋は、別に真っ白な壁をしているわけでもなければ、病院独特の匂いもない。
あたしは自宅でフリーのカウンセラーをしているだけだから、本棚もあれば小物もあるし、あたしの好きな花も飾られている。
僅か8畳ほどの部屋で向かい合うまでに至ったあたしと、そして世間では今注目の的として。
お騒がせセレブと言われるロックミュージシャンの弓弦様は足を組んで腹立たしそうな不貞腐れたような顔でソファに沈んでいた。
「あんた、どうかしてんじゃないの。」
「あら、どこが?」
「髪って女の命じゃないの?」
「古いことわざを言うのね。現代の女はそんなこと関係なく、切りたいと思えば切りますよ。」
「俺の目の前で女捨てましたって見せつけたいが為に切ることもそれに当てはまると?」
「これくらいしないと弓弦くんが女を舐めた態度を改めないだろうと思ったに過ぎないわ。」
「だからって…、」
「言ったでしょう?仕事に妥協はしないって。信頼を勝ち取るなんてそう簡単なことでないことくらい、カウンセラーなら誰だって知ってるのよ。」
残りの髪をさっさと切ってしまい、ゴミ箱に捨てながら。
この後に美容院の予約取らないとなと考えるあたしは、彼にとっては異質なのだろう。
ただ身体張って信用を得ないといけない人がいることを、カウンセラーなら見てわかる人だって多くいる。
彼はそのタイプだろうと踏んだからそうしたまでだ。
「別に、信頼したわけじゃないから。」
「ええ、それもわかってるわ。でもあたしに従って部屋に入ってくれるくらいには先生だって認めてくれたんでしょう?」
「…………嫌な女。」
吐き捨てるように言われることには笑ってしまった。
さっきまで女の好みを言うのにあたしの容姿を語ったくせに。
それを数分の間で覆せたのは少なからず気分がいい。
「じゃあ、話しをしましょう?どうしてライブ活動も、芸能活動すらも…、しなくなったの?」
本題に入るべく、静かに口を紡いで見つめると。
彼は眉根を寄せたままあたしを一瞥し、ハッと笑っていた。
「そんなのやる気にならないからとしか言えないじゃん。」
むしろそれ意外にどんな理由があると思うわけ?なんて聞いて来る態度は相変わらずだけど…。
「どうしてやる気にならないのかしら?あなたは小さい頃から芸能界に居て、その才能を発揮してきたんでしょう?」
天才児と言われ、音楽への才能を開花させるまでは早く。
一般的に誰もが学校に通い、培っていく教養すら身につける暇もなくトップアーティストまで上り詰めたのは誰もが知っていることだ。
「知るかよ。やりたくないもんはやりたくないの。休みたい時に休んで何が悪いわけ?」
「悪いとは言ってないわ。人間には休息も必要よ?でもあなたの場合は突然すぎる。」
「それがなに?悪いって言われてるようにしか聞こえないけど?」
「周りが心配するくらい唐突すぎると言ってるのよ。その自覚はあるんでしょう?」
「………」
「あなたにとって温学は全てだったんじゃないの?それを取り上げられたらあなたは今の地位も名誉もなくなるわ。それを捨ててまでやりたいことでもあったの?」
カウンセリングは一時間。
その間に患者のことを見抜き、導いてやるのがカウンセラーだけど。
「やりたいことがなくちゃ休んじゃいけないわけ?!正直うざいんだよそういうの!!」
「弓弦くん…。」
「頼んでもない心配されて、頼んでもないカウンセリング受けさせられて…!!俺がステージにさえ立てば万事解決なんだろ?!金を回らせろって言うんだろ!?そんな強要されて誰が戻る気になるんだよっ!!」
立ち上がり、机を蹴飛ばして怒鳴る様は相当追い込まれているのがわかった。
何よりも、彼を本当に心配しているだけの周りに対し。
自分の価値はそれだけだと告げて来るような姿には眉尻を下げてしまう。
弓弦くんは自分が背負ってるものの重さも、自分の存在価値も。
誰よりわかっていて、誰よりわかってない。
「落ち着いて。ちゃんと話しをしましょう?」
「話したって無駄だ!!俺はやりたくないことはしないっ!!俺をステージに上がらせたいなら抱かせろよ。女差し出せ!それなら考えてやらなくもない。」
吐き捨てるように言ってくるそれらはどんなに最低なものなのかと、普通なら軽蔑されて見捨てられるものだ。
実際、他のカウンセラーはそうしたのだろう。
心理学者としてではなく、人としてこの男を見てしまったのだろう。
それくらい、弓弦くんには人の心に直接訴えかけられる言葉の力ってものがある。
でもそれは今の彼にとってただの防衛本能としてしか役に立ってない。
つまり、彼は…
「そう。良かった…。弓弦くんはステージに立ちたいのね。」
「な…?!」
「周りに言われるまでもなく、その場所に帰りたいのはあなた自身なのね。」
「…っ?!」
ただ周りに追い詰められれば追い詰められるほどに。
自分の価値すら見失ってしまうほどに、荒れているのだろう。
それだけわかれば初日としては充分だ。
「いいわ。じゃあ今日はもう話しはやめましょう。」
「なん…っ!」
これ以上追い込む必要はない。
寧ろ、そんな概念を無くさなければ先に進めないだろう。
そう思ってにこやかに笑い、あたしも立ち上がりながら…
「あなたのやりたいことやりましょう?」
付き合うわよ?と言って見つめていた。
「やりたいことって…、」
「趣味とかあるでしょう?飽きることなく続けてきたものとか。」
アジア圏でもトップアーティストとして駆け抜けてきた弓弦ではなく。
ひとりの男として、人間として。
楽しめる何かくらいあるだろうと。
そしてあたしは、偏見なくひとりの人間として弓弦くんを診る気でそう言ったのだけど…。
「セックス。」
「………は、い?」
今なんて言いましたか?この人。
思わずポカンとするあたしに、弓弦くんは真顔で。
それはもう羞恥心もへったくれもなく。
「唯一飽きずに続けてんのはセックスくらいだけど?」
なんて言ってくるもんだから、無意識に顔はひきつるってもんだ。
この患者様…、相当病んでるだけでなく相当最低野郎だなと。
そう思わずにはいられない。
「悟先生、相手にしてくれんの?」
甘ったるく笑ってあたしが今しがた切ってしまった短い髪に触れてくる弓弦くん…。
相当先が思いやられます。
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