もしもノアが記憶喪失になったら❶

「「記憶喪失?!!」」

見事にテンポのあった2人が迫るのは院長であるリンダにだった。

「ええ、そうよ。」

うるさい、と眉根を寄せる彼女は相変わらずこの病院を切り盛りしており、その腕は確か。

そんなリンダが雇っている腕だけは確かな診断医、ノアが記憶喪失であることを唯一仲良くしている2人に伝えたのは今朝方のこと。

「病院の目の前で飲酒運転の車に跳ねられてね。幸い、スピードもそこまで出てなかったから傷は大したことないんだけど…。」

跳ねられた瞬間に頭部を強く打って、目を覚ましたときには軽い記憶喪失となっていたそうだ。

「あたしのことも覚えちゃいないわ。」
「院長のことも、ですか…?」
「ええ、あたしがダメならこの病院で古株のハリーも同じかもね。もしかしたら大学のころの記憶はあるかもしれないけど…。」

全く面倒な…と呟くリンダにとってはこの病院の稼ぎ頭であるノアが使えないのは痛い様子。

「いや、もっと心配してやれよ?てか俺やリンダのことすら忘れてんなら誰のことなら覚えてるっていうんだ?」

アリスなんて論外だ。
リンダとハリーを覚えていない時点で出会ってすらないのだから。

いや、そもそもハリーに関してはまだわからない。

大学の頃の記憶があるならハリーとノアはよく連んでいたし、覚えてる可能性は無きにしもあらずだ。

「さあね。それも含めて記憶をとっとと戻して欲しいからあなた達を呼んで説明してるのよ。」

わかるでしょ?とリンダは大口の顧客である診断書の山を見せる。

ノアでなくてもいい病気の診断、手術ならばいいのだが、ノアでなければ解決できない病気になってくると話しは別だ。

この病院が他の大きな病院と違って支持されるひとつの理由はここにある。

もちろんノアだけでなく、ハリーも精神科医としてはずば抜けているし、ハリーならばと通ってくれる患者も多いが、

卑しい話し。
金の計算に当てはめればノアだけでもハリーだけでもダメなのだ。

2人が得意とする分野で2人にしかできない治療をしてこそ支持を得られているのだから。

つまり片方でも欠けられると大損なのである。

最中、

「話しとはなんだ?俺はバイトであって正社員じゃないんだ。文句言われる筋合いはないんだがな。」

院長室に遅れてやってきた横柄な態度のもう1人のノア。

襟足の長い黒髪をなびかせ、腕組みしながら集まっている面々を見つつ、なんなんだと言いたげな顔をしている。

「遅刻よ、ノワール先生。」

リンダがため息混じりに睨みつけるものの、全く同じていないノワールが「それがなんだ。」と返すのだ。

「もういいわ。とにかく、このことはあなた達に任せるからどうにかして頂戴。」

言い争うのも面倒だとばかりにリンダが手を振る中、後から来たノワールは小首を傾げていて当然。

丸投げかよ…、とハリーが呟くことにも、

「可能性として最も覚えていそうな人はハリーか、ノワール先生くらいでしょう?」

長い付き合いなんだから今回もよろしく頼むわと、リンダは言いつつ…、

「ノア先生の記憶が戻るまではノワール先生にノア先生の仕事をやってもらうつもりだから。」

そこらへんもちゃんと教えておくように、とハリーに釘を刺すリンダ。

つまるところ全てのノアの面倒はいつも通りハリーに一任されたわけなのだが、

「だから!?なんでいつもいつも俺がノアの面倒を押しつけられなきゃなんねえんだよ?!こっちにも仕事がだな…!」
「あら仕方ないじゃない。下衆野郎でもあなたはノア先生の取扱説明書でしょ?」

にっこりと美しく微笑む今日のアリスもゴスロリ姿。

そしてにこやかなもののその言い方はトゲがあり、なんでてめえなんだよと目が語っているではないか。

ハリーはゲンナリしつつ、いつもノアのせいで被害を被る自分の人生を見つめ直したい気分になるのだった。

最中、

「一体なんの話しをしてるんだ。ノアの記憶がなんだって?」

ノワールがイマイチ話が掴めないまま壁際にもたれ、相変わらずの偉そうな態度で問いかけるのである。

リンダはそこらへんの説明もハリーに任せて会議があるからと行ってしまった。

もうこのノアが巻き起こす災難を全てかぶる体質はどうにもならないようだ。

そしてハリーがノアが検査も兼ねて入院している病室に向かいながらノワールに事情を説明したのである。

「記憶喪失って…、これはまた面白い病気になったもんだな。あいつはそこまでドジだったのか。」
「言い方な、言い方。お前の双子の弟だぞ?もう少し心配したらどうなんだよ。」
「事故って頭打って記憶喪失って…、どこの物語のヒロインだって話だろ。」

クックックッと喉を詰まらせたような笑い方をするノワールはどうやらツボに入ったのかひとりでずっと笑っていた。

「いいじゃないの。それでこそあたしの可愛いノア先生だわ。」

そしてアリスはアリスで真っ白になったノアを早く見たいがためにルンルンで歩いている。

こいつら…、と一応常識はあるハリーが頭を抱えるのも無理はない。

そうしてたどり着いた病室に入り、頭に包帯を巻かれた状態でぼんやりと窓の外を眺めているノアを確認したのである。

「調子はどうだノア?てか俺のことわかるか?」

ハリーが優しく声をかけ、歩み寄っていけば反応したノアがゆったりと振り返って怪訝そうな顔をするのである。

「誰だ、お前は…。」

ジト目で警戒している様子を見るとハリーのこともきれいさっぱり忘れているらしい。

しかもこの態度、大学で初めて出会ったときになんとなく似ている気もした。

自分にはすこぶる興味がなく、それでいて警戒心も強く、人に嫌われていることが当たり前だからこそ怯えたような眼差しで好奇心もにじませるのだ。

ダメか、とハリーが肩をすくめつつ振り返り、

「じゃあ当然アリスのこともわかんねえんだよな?」

後ろ指をさしてゴスロリ女の方だよと教えるハリー。

雑な扱い方にアリスが笑顔のまま殺気を放っているのはいうまでもない。

ハリーからすれば慣れたことだが、ノアはビックゥゥッと肩を上げてたじろいでいた。

「お、お、お、お前っ、すごい睨まれてるぞ?!」

勿論覚えのない顔だし、だからって初対面にしては印象が最悪すぎる。

なんなんだあの女は!とノアが震え上がるのだ。

これは面白い、とハリーはほくそ笑んで振り返っていた。

アリスは舌打ちを軽くしており、なんつー紹介の仕方してくれてんだ下衆野郎と目が語っていた。

そんな中、

「じゃあ俺のこともわからないのか?ノア。」

2人のやりとりを割って、ノワールが近寄り、ノアのベットサイドの椅子に腰掛けていたのである。

「え…、」
「ノワールだ。」
「ノワール…?!だって見た目が…!」

え?ええ??と困惑しているノアの様子を見る限り、ノワールのことは覚えているらしい。

けれどその姿に大混乱しているところを見ると、大人の姿のノワールを知らないのだろう。

つまり、

「落ち着け。」
「だ、だってノア…!お前はまだ子供で、俺も…!」

子供のはず!と言いたいのだろう。
慌てるノアに、ノワールはデコピンしていた。

軽く頭を弾き飛ばされたノアが額に手を当ててうずくまり、なにすんだ!と顔を上げる様に、

「診断は聞いたか?お前は記憶喪失だそうだぞ。」
「そんなこと知らない。変な女がピーチクパーチク言ってたが、家に帰らなくていいならラッキー程度にしか考えてなかったし。」

むむむ、とノアが額を尚もさすりながら小首を傾げる様にはハリーとアリスも納得していた。

おそらくノアの記憶は子供の頃。
小学生くらいで止まっているのだ。

そしてその頃のノアは向かいの家にひとりでいるノワールのところに通っていた。

両親という呪縛にうんざりして、愛情になんて期待もしないで、自分の身を守るようにノワールと一緒にいた頃なのだ。

下手に頭が良すぎるから大人の戯言に耳を貸そうともしないし、同年代の友達もバカばかりだと思っていた頃だ。

つまり、この頃のノアにはノワールしか心許せる相手はいなかった。

「それより、ほんとうにノワールなのか?」

ノアは恐る恐る目の前の成長したノワールに手を伸ばし、触っていいのかどうか迷いながらもそっと触れていた。

ビクつくその手にノワールがふっと笑ってすり寄ってやれば、ノアも目をパチクリとしながら本物なんだと認識したらしい。

「記憶喪失…か。つまりもう子供じゃないんだな、俺もノアも。」
「そういうことだ。鏡でも見てみるか?」

言いながら個室の病室に設置されている洗面台を指させば、ノアは恐る恐る立ち上がって鏡の中を覗き込んでいた。

そして知らない自分の成長した姿に目を丸々とさせており、飛び退くという猫さながらの反応をするではないか。

これだけで悶え苦しんでいるアリスは壁際によりかかってバンバンハリーの肩を叩きながら鼻血を拭いていた。

ハリーはハリーで痛ってええ!と我慢しつつも愛くるしいノアの姿に変な情欲をしている為、理性を保つのにこの痛みは役立っていた様子。

こんな変人変態が友人で恋人であるなんて今のノアが知ったら震え上がるどころではないだろう。

そんな中、びっくりした様子でまじまじと自分の顔に触れていたノアがくるりと身体の向きを変えてノワールに駆け寄っていくのだ。

「の、ノア…!ノア…!!俺がおっきくなってる!!」
「だからそう言っただろう。今ではお前が嫌いな両親だって家にはいない。」
「マジか?!」
「大真面目だ。」

ノワールの膝に乗っかって対面するように座るノアは子供そのもの。

まあ、大人の姿でもいつも子供っぽかったが、こんな無邪気なはしゃぎ方はしなかった。

慣れているノワールはそんなノアを撫でており、2人のノアが顔を寄せて笑い合うだけの姿に、

アリスとハリーが悶え苦しんで這いつくばり、ノア馬鹿を発揮しているというカオスな状況である。

そんな中、

「じゃあもう学校行かなくていいのか?!低レベルな勉強や宿題もする必要ないのか?!ご飯もあの家で食べなくていいのか?!」
「ああ、しなくていい。お前の嫌なものはここには何もない。」

パアアッと顔を輝かせる純真無垢なノアの愛くるしさは天使だと、ハリーとアリスが思ったのはいうまでもない。

この天使をどう辱めてやろうかと考える下衆な親友と、この天使をどう泣かせようかと考える女王様な恋人が色々企んでいる中、

「じゃあノアと一緒にご飯も食べられるしずっと一緒にいても怒られないんだな?!」
「まあ…、そういうことになるな。最近そんなこと言われたことないが…。」
「うん?なんでだ?大人の俺はノアと喧嘩でもしてたのか?」
「喧嘩…はしてないが、まあお前にはお前の大事なものがあったしな。」
「????俺の大事なものはノアと俺だぞ???」
「うむ…、まあガキの頃の記憶で止まってるならそうだろうな。」

だから自由にはなったものの、一緒に住んでるわけでもなけりゃ同じ屋根の下で寝食を共にしてることもないとノワールが教えてやると、

ノアの顔はガーンと、見るからにショックを受けて泣きそうになっているではないか。

「そ、そんな…。じゃあ俺はどこで暮してるんだ?ひとりぼっちなのか?なんでノアがいないんだよ。」

しょぼしょぼと縮こまってしゅーーーんとうなだれる様はなんともわかりやすい。

アリスとハリーが目を合わせて、

「俺のノア、天使すぎて死にそうなんだけど?」
「あたしのノア先生よ!でも天使すぎて死にそうなところは同意するわ。」
「なにあれやばくねえ?この真っ白な天使、いろいろ洗脳できそう…」
「本音ダダ漏れだわよクソ野郎。食べちゃいたいのはあたしも一緒なんだから抜け駆けは許さないからね。」
「瞳孔開いてんぞ、おい。」
「あんたもその粗末なもんとっとと仕舞いなさいよ。」
「生理現象だ。」

なんて下劣な会話が為されていたことなどノアが知るわけもなく、

ノワールはその内容に今のノアを渡すのを躊躇っていた。

いつもなら別になんてことなくノアを2人に託すのだが、いかんせん今のノアにあの2人をどうにかできる抵抗力は一切ない。

ハリーのこともアリスのこともなんだかんだわかっていたからこそ、下劣な言葉や見方に対してギャンギャン言えたものの、

今のノアでは完全に恐怖に怯えて泣き出してしまいそうだ。

さすがにノワールも可愛い弟をこの2人の悪魔から守らなければならなそうだと思っていた。

この頃のノアに色々と教えて手籠にしたのは何を隠そうノワールなのだが、

今のノアを見る限りまだ教える前の様子。

この状態のノアは信じているノワールの言葉なら何でも素直に吸収して言うことを聞いていたから、

アリスやハリーが取り入って色々と間違った情報を与えてしまえばなんかとんでもないことになりそうなのは嫌でもわかる。

だからこそ、

「うむ、では俺と暮らすかノア?」
「え?」
「「はああああっ?!!!」」

ノアがきょとんとした瞬間、背後からはアリスとハリーの抗議の声が響いたのである。

「なに言ってんのよノワール先生!!!ノア先生はあたしと2人で暮らしてるのよ?!」
「ていうか普通に持ち帰りしようとすんじゃねえよ?!ノアを落ち着かせてくれるだけでいいんだよ!!てめえはもう帰れ!!あとは俺が面倒見るから?!」

ガシ、と2人に肩を掴まれすごまれるノワール。

ハリーとアリスの迫力にここまで晒されたことはないノワールも、やっぱこいつら危険だなと真顔で確信していた。

「お前たちに任せたら面白おかしく都合のいい記憶を植え付けるだろう。」
「そんなの当たり前だろうが!」
「そんなの当たり前でしょ?!」

見事タイミングを合わせて開き直ってくる2人に対し、ノワールが「欲望だだ漏れか…。」と突っ込むくらいには鬼気迫るものがあった。

この記憶喪失の天使は絶対自分のものにするんだと大人の欲望に塗れすぎていて普通に怖い。

ノアが無意識にノワールに縋り付いて怯えているではないか。

まさか身内が敵になるとは…、とノワールがため息をつくのも無理はない。

「ノア、この2人はお前の敵だ。わかったな?」
「敵?」
「そうだ。お前の嫌なことをして泣かそうとするんだ。」
「あの女と男と同じか。」
「父さんと母さんはまだマシなほうだ。この2人はもっとひどい。」
「なにっ!」

シャーーー!と突然毛を逆立てた猫のようにノアがハリーとアリスを威嚇し、ノワールにひっついていた。

その瞬間、ハリーもアリスも…

「…っかわいい〜っ!ノア先生が可愛いっ!!!………っじゃないわ!なんてこと吹き込んでんのよノワール先生?!」
「ずるいぞてめえ?!一番に最悪な記憶植えつけてんのてめえじゃねえか?!返せ!俺のノアだぞ?!」

ギャンギャンいいながらもノアの反応はものすごく愛らしいと認識した様子。

こいつら絶対頭おかしいとノワールは考えつつ、

「ノアを悪く言うな!!」

ノアはノアで怯えながらもノワールを守ろうとするのである。

火に油を注ぐその愛くるしい行為に、

「悪く言われたくないなら怯えてないで立ち向かってきなさいよノア先生?いつもしてたじゃない。隠れてシャーシャー言ったってあたしの加虐心を煽るだけよ?」

アリスがもうノリノリでニンマリ笑うのだ。

ノアがビクうううっと背筋を伸ばす姿にすら恍惚としているではないか。

「アホめ!なに悪役顔キメてんだよ!!」

最中、ハリーがスコーンとアリスの頭をしばき倒していた。

そのままノアの目の前でしゃがみこみ、人の良さそうな笑顔でにっこりと言うのである。

「ノワールを悪く言ってたんじゃないんだぞノア。それに俺はお前の双子の兄貴で…」
「あんたこそデタラメ言ってんじゃないわよ!あろうことかノワール先生の前でよくもそんな嘘つけるわね?!」

今度はアリスがハリーの頭をしばき倒していた。

「俺のことお兄さまって呼んでたんだぞ?」
「まだ続けるか?!この変態下衆野郎!!!魂胆見え見えなのよ!!!」
「お前も人のこと言えねえだろ?!言い返してこねえノアを好き放題泣かせられると思ってあんな言い方しやがって!」
「だって可愛いんだもの!!!可愛いは正義よ!そして正義とは悪役あってこそなのよ!」
「お花畑の頭でノアに近寄るんじゃねえ!!」
「脳内ショッキングピンクの変態野郎にだけは言われたくないわ!!!」

目の前でいつもの喧嘩をし出した2人に、ノワールはため息をついてこっそりとノアを抱き上げたまま部屋を出たのである。

「相変わらずだなあの2人は…。」

やれやれとノワールが廊下でノアを下ろしてやると、

「なんなんだあの2人は?よくわからんがめちゃくちゃ怖い!」

なんで僕のことで勝手に喧嘩するんだ?!とびっくりして未だに怯えているノアの問いかけに、

ノワールはあの2人をああしたのはお前なんだがな…、と心の中で思うのである。

2人の変態を作ったのはまごうことなきノアなのだが、本人はそんなこと記憶が戻ったとしても人のせいにするな!って言うだろう。

まああの2人の変質的な性癖を素で刺激できるのはノアくらいのものだ。

「とりあえず腹ごしらえでもするかノア。」
「え、ノアとご飯か?!」

パアアッと急に嬉しさを表現する愛くるしい姿は本当に懐かしい。

ノワールにとってノアは愛される側のノアだったからこそ、その無邪気さを殺される前に期待をしてはいけないことを教えたのだが、

今はそんなことする必要もないのだと思えば気楽だし、なにより兄弟らしく可愛がってやれるのは嬉しいものだった。

「うむ、病院食は味気ないだろうし俺も腹が減ったしな。どこか食べに行くか。」
「じゃああそこ行きたい!あそこ!」
「ん?」

病院から出て見える店を指差すノア。
それはどこにでもあるジャンクフードの店だった。

子供の頃はあんな田舎の街並みにジャンクフードの店なんてありはしなかったが、

家族連れが多い住宅街ではドライブスルーをして買ってくる姿はよく見かけたのだ。

あれは美味しいのだろうかとノアと2人でよく話していた、くだらないことを思い出したノワールは頷きながら連れて行ってやっていた。

まあ…、

「もぐもぐしてるわ!天使がもぐもぐしてるわ!!!」
「写真写真!おい!充電器持ってねえか?!」
「なんでお前らがいるんだ…。」

ノアと2人で食べていたはずなのに、この2人はノアに発信器でもつけてるのかと思うくらい当たり前に同席してくるのである。

対してノアは記憶喪失であるから、はじめての味に目を輝かせて口いっぱいにもごもごしている。

「独り占めなんてさせないわよノワール先生。」
「独り占めって…、」
「てかなんでジャンクフードなわけ?ノアってジャンクフード好きだったっけ?」
「この頃は興味あったんだよ。」

ノワールがノアの口元を拭いてやりながら言えば、それは俺にさせろよ?!とハリーが突っかかっていた。

「てかさ、聞いてた話しと随分違わねえ?子供らしくないノアの話ししか聞かされてなかったけど、普通に大人のノアより人間らしいじゃん。」

めちゃくちゃ可愛い、ああ可愛い。マジ天使、とハリーが眺めながらきちんと食事を摂るノアを見つめるのである。

大学の頃からノアは全くと言っていいほど食事に無頓着だったし、今でこそそうでなくても食べることが面倒だと思えば何も摂らないのだ。

だからお腹を空かせて食べたいものにがっつくノアなんて見たことない。

けれど目の前でそれは行われているのである。

「そうよねえ?家でもノア先生ったら作るのは上手なんだけどいつも自分のものは作らないのよ。味見してお腹いっぱいだとか言って。」

アリスもそういえばと話しをすれば、ノワールが腕を組んだまま、

「まあガキの頃の食事がノアにとって苦痛でしかないものだったからな。」

会話のない食卓。
母ばかり気にかける父の迫力に縮こまり、母は母でノアに興味関心があるようでなくて…、

食事をたまに忘れられていたり、逆に可愛い食べ物ばかり集めてノアに出してみたりと、

かなり偏食で気まぐれ的な可愛がり方をされていた分、ノアにとって食事はとてつもない苦痛のひとつになっていくのだが、

今のノアは記憶喪失で子供の頃のまま止まっているだけ。

もうノアを自分の好き勝手にする親はいないのだ。

「好きなものを好きなだけ食べることをしたことなかったからな。記憶喪失とはいえ、それが出来たっていうのは大きいかもしれないな。」

ノワールが優しく笑って食べ終えたノアの頭を撫でるさまに、

ハリーとアリスもなごみながらなるほどとシャッター音をずっと響かせていた。

「それよりいつまでそうしてるつもりだ。」
「ノア先生を引き取るのは誰か、ちゃんと決めなきゃね。」
「いや、お前らに渡す気はないぞ。」
「なんでてめえがきめてんだよ!」
「いまのノアの扱い方を間違えればこの先一生嫌われるとわからんのかお前らは。」
「「う…っ、」」

フンと鼻を鳴らすノワールに対し、色々やってみたい欲望まみれの2人は反論の言葉をなくす。

当たり前だ。
ノアに嫌われたら元も子もない。

記憶喪失とはいえ、記憶が戻ったときにどこまで影響するかも見えない悪ふざけはリスクもある。

いつものノアならお前らな!と怒って済ませてくれることでも今のノアには通じないのだから。

それを刻み込まれたまま記憶を取り戻せばいつも通りとはいかなくなるかもしれない。

なんせノアはノアなのだから。
横柄で口が悪くても繊細で純粋なのだ。

「兎に角、俺が引き取るのは決定事項だ。会いにくるのは構わないが、怯えさせたりあらぬことを吹き込むようなら二度とあわせないからな。」

全く、とノワールが言い切ることにハリーもアリスも仕方なさそうに頷いていた。

「でも一生の傷にならない程度ならいいのよね?」
「おい、」
「お兄さまって呼び方を定着させたら記憶取り戻した時も言うかなこいつ。」
「おい…、」
「じゃああたしのことはアリスさまって呼んでねノア先生。」
「お前らな…」

全く懲りない2人を前に頭を抱えるノワール。

その隣ではお腹いっぱいでうとうとしているノアがいるではないか。

記憶喪失にはてさて、どこまで巻き込まれてしまうのか…。

天使力に磨きをかけたノア争奪戦の開幕の音を聞いた気がしたノワールは…、



「よくこの2人と付き合えてたなノア…」


心の底からそう思うのであった。

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